エビータ
聞いた事のある名前だと思います。
日本でも「エビータ」を題材に
劇団四季がミュージカルを
映画にもなっています。
近年ではマドンナが主演で映画化されました。
エビータはアルゼンチン大統領フアン• ペロンの妻
エバ•ペロンの愛称です。
彼女は今もアルゼンチン国民に圧倒的な人気を集めています。
そしてアルゼンチンの歴史に残りました。
エビータを語ると
とてつもなく長くなってしまうので
要点だけお話いようと思います。
「エビータ」は愛称で
名前は「マリア•エバ•ドゥアルテ•デ•ペロン」
1919年 パンパス草原の貧しい村ロス• トルドスで
生まれた5人の私生児のうちの一人。
首都ブエノスアイレスから離れた田舎町
フニンで育ち
15才で家出をしブエノスアイレスに上京しました。(高等教育は受けていない)
ブエノスアイレスでは日系人のカフェで働きながら水着のグラビアや広告モデルの仕事をし
高級売春婦として生計をたてていました。
1930年代後半頃より
ラジオドラマの声優や女優として活躍し始め
B級メロドラマ、映画、ラジオドラマ「エル•ムンド」に出演していた1943年に
パーティーで軍事政権の副大統領 兼 国防大臣 兼 労務局長の肩書きを持つ
フアン•ドミンゴ•ペロン大佐に出会います。
以後 ペロンの愛人として過ごす様になります。
第二次世界大戦下で中立国として
双方へ牛肉の輸出を行い
膨大な外貨を稼いでいましたが
度重なる政変と汚職により
貧富の差が大きかった中で
労働者階級の大きな支持を受けていました。
第二次世界大戦後の1945年10月にクーデターがおきペロンは軍事裁判で有罪判決を受けます。
10月11日刑務所に服役しましたが
エバはペロン支持者の指示のもとラジオで
ペロンの釈放を呼びかけます。
支持母体の弱かったアバロスが10月21日に政権を放棄したためペロンは釈放され
10月26日
ペロンとエバは結婚しました。
翌1946年3月28日 アルゼンチン大統領に就任
ファーストレディー(大統領婦人)となったエバは
夫の指示を受け、支援票を増やすため
婦人部門を組織させた上
「女性参政権」を導入
労働者用の住宅、孤児院、養老院等の施設整備を名目に 慈善団体「エバ•ペロン財団」を設立
ミシン、毛布、食料等を配布
(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)
「再分配」により労働者階級を支持層にしました。
しかし「再分配」の資金は税金のみならず
労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」 によって賄われていた為
アルゼンチン経済に大きな悪影響を与えることになりました。
中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から
大きな批判をあびていました。
1947年6月6日「レインボー•ツアー」と呼ばれた
ヨーロッパ外遊を行います。
スペインやイタリア、バチカン、イギリスなどを訪問し多数の国家元首と会見しました。
これは第二次世界大戦において
ファシストの一員として見なされた
ペロン政権のイメージチェンジの為の
大規模な広報活動で
大戦中に蓄えた外貨を
これらの国にばら蒔くと共に
エバの勲章授与
公式晩餐会の開催を依頼
しかしエバとの公式晩餐会の開催を拒否
勲章も与えられませんでした。
1951年頃よりエバに副大統領の地位を与え
更なる政治的権力を得ようとしていた時
エバが子宮癌と診断を受けました。
ペロン就任演説の時のエバは症状が重く
直立出来るようなコルセットを装着し
分厚い軍服を着て壇上に立っていました。
この時の体重は33kgだったそうです。
1952年 エバは子宮癌によって33才で死去
ブエノスアイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列し
エバの墓の建立のための寄付金が集められましたが台座のみが作られて終わりました。
その後、遺体はエンバーミング処理を施されて展示されていました。
1955年9月 ペロンは軍事クーデターにより
大統領の職をおわれスペインへ亡命
エバの遺体もイタリアのミラノへ
そこで埋葬されました。
1971年(16年後)
遺体は発掘されスペインへ
亡命したペロンはその後
元ナイトクラブ歌手のイザベルと再婚
1973年7月
前大統領の辞任を受け
「ペロニスタ」政治家達がペロンに対し
大統領選挙への出馬を要請し
同年10月に再び大統領復帰、副大統領には妻のイザベラを就任させましたが
帰国後わずか1年、
1974年7月ペロンは病死しました。
その後1976年に発生した
軍事クーデターにより
イザベラが失脚すると
エバの遺体はアルゼンチンへ返還されました。
ブエノスアイレスのレコレータ墓地に
今も眠っています。
ブエノスアイレスは彼女の遺品などを展示した
エビータ博物館が存在します。
2012年からアルゼンチンの紙幣
100ペソ札の肖像画として発行されました。